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想像力は「わかろうとする力」【知識の木の上で生きる私たちvol.3】

 「想像」とは何でしょうか。
 それは、文字通り「像」を「想」うことであり、その能力のことを私たちは「想像力」と呼んでいます。
 私たちは知識の木の全貌、いつどこにどのような枝が生えていて、いつ葉がついて、どのような鳥や昆虫が巣にしているのかといった、その詳細まで明確に把握することはできません。これはどんな天才でも無理なことです。しかし、その像を何となくイメージすることはさほど難しいことではありません。これは、人が常日頃から想像する力を使い、その力を鍛えているからにほかなりません。
 たとえば、人はコミュニケーションを行う際に、言葉や態度から相手の伝えたいことを想像します。人が動物とも意思疎通ができるように感じられるのは、相手の意志を理解する過程において想像力が発揮されているからであり、あくまでもコミュニケーションが成り立つ本質は、わかろうとする過程で行われる、お互いの想像力によるものです。
 このように想像力は私たちが何かを理解しようとするときに発揮されますが、個人のイメージはあくまでも個人が思い描いたものであり、必ずしも実際にわかろうとしたことそのものであるわけではありません。だからこそ人は誤解するのです。理解や知識が不足していたり、間違った情報を元にしていたり、感情的に受け入れ難かったりなど、細かな要因が重なることによってズレが生じてしまうのです。
 わかろうとする過程で無意識に思い込んでしまうことは、想像力を働かせる上で必ず起きてしまうことです。ユリウス・カエサルが『人は自分が見たいものしか見ない』と指摘したのは二千年以上昔の話ですが、人が本質を見ることができないのは現在もかわりません。
 しかし、それで構わないのです。完全にわかることができないということ自体は、人類の歴史をみても本質的な原則です。そして、たとえ脳や心がわかったように感じる錯覚であっても、わかろうとする気持ちのほうがよっぽど大事だからです。
 たとえば、知識の木とはどういうことなのか。何を伝えようとしているのか。それは、「知識の木とはなんだろう」と、そのイメージに想いを巡らせることでしか伝わりません。わかろうとしてもらわなければ伝わらないのです。木の全体像をわかろうとしてもらえなければ、木の枝と枝の合間に空間があること、その空間に大きな可能性が秘められていることすらわかってもらえないのです。
 このように想像には猶予が認められています。わかろうとしたのだから、どうわかるかは勝手にしていいということです。だから、基本的なことがら以外の細かな部分は、厳密にわからなくてもいいのです。わからないものは大体でいい。わかろうとする姿勢が大事なのです。

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