この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
情報提供者
扉をノックする音に井上が「どうぞ」と返事をすると、秘書が執務室に入ってきた。
「人類安全調査室室長がお見えです。重要な報告があるとのことで直接お会いしたいとのことですが、いかが致しましょうか」
「わかった、通してくれ」
井上がそう返事をすると、秘書は一礼をして執務室を出る。そして、間もなくして調査室室長が執務室に入ってくると、井上の前に立って報告をはじめた。
「新見の所在を知るという、情報提供者が現れました」
新見は政府組織の総力を挙げて探したにも関わらず、今まで見つからなかったのである。それが本当であれば飛び上がるほど喜んだであろうが、まだ実際に見つかったわけではない。
「ふむ、それで」
「情報提供に条件を提示しています」
定番なのは物資や金といったものだろうが、それならば室長がわざわざ報告しにきたりはしない。
「その条件に問題があるのか」
「例の荒木議員の昔なじみ。彼の身柄引き渡しを要求してきました」
「なるほど。そうきたか……」
誰に向かうともなく、井上はそうつぶやく。
ステータス方式の存在は、もはや野党には限りなく“クロ”だと認定されている。しかしながら、その確たる証拠にたどり着いたものはいない。彼はその証拠の存在に近づいているとのことだ。野党としては喉から手が出るほど欲しいだろう。
また、彼は荒木とは昔なじみとのことだ。俄然勢いに乗っている荒木の過去のスキャンダルにつながるような情報をも握っているかもしれない。両陣営の弱点となるような情報を握っている藤森という存在を手札として持っている者が勝つ。そんな状況に現状はなりつつあった。それを今、実際に手札としているのは井上である。
井上は、その情報提供者というのは、野党関係者だと決めつけていた。その上で、相手が新見との交換を申し出てきたということは、野党にとって追い風を作ってくれた新見よりも、今乗りに乗っている荒木に傷がつくのは阻止したいという思惑が透けて見える。
「その彼は何か話したか」
「完全に黙秘を続けています。ただ、あと数時間でエネルギー切れとなります。自動スリープに移行すれば、その後は半覚醒モードで再起動させます。そうなればいくらでも情報を搾れるでしょう」
ならば欲張りにどちらの情報もいただくのが筋だろう。新見は今も政権にとっての最大のリスクだ。
「3日後に引き渡しということで飲んで構わない。もちろん尻尾を掴まれるようなデータは引き渡すな。情報を搾れるだけ搾ったあとに、あくまで身柄だけだ」
そんな井上の判断に、室長は少し戸惑って聞いた。
「よろしいのですか」
「なんだ、3日じゃ足りないのか」
「いいえ、時間は充分かと思いますが、情報提供者として名乗り出たのは上田先生です」
「上田だとっ」
井上は耳を疑った。たしかに上田が自分の敵に回ることは可能性としてはあったが、それはあくまでも同じ勢力内の派閥争いという意味だ。野党側に回るなんてことはありえないと信じていた。
密室会議、再び
電波を完全に遮断する会議室。およそ10年前、ステータス方式導入が検討されたあの場所に、井上と上田の両者はいた。他の者は会議室の外で待機しており、完全な密室で2人は対峙していた。
最初に口を開いたのは井上であった。
「どうゆうつもりだ上田、説明してもらうぞ」
上田の意図が読めない以上、上田に何かを語らせるしか次の手を考えることもできない状態だった。そして、そんな様子をみた上田は、井上の現状把握の甘さに少し落胆した。
「それはこちらの台詞だ。民衆の政府への不信感は高まる一方で、人類は完全に分断されてしまった。この事態、どう収集をつけるつもりだ」
何かあれば責任を取るのは自分。それは、かつてこの場所で自分が上田に宣言したことではあった。それ以降、井上がやってきたことに、これまで上田から横槍を入れられることはなかった。ステータス方式の導入では意見は対立したが、長年の同志である。味方とはいわないまでも中立の立場は保つだろうと井上は考えていた。
だが、今、目の前にいる上田の剣幕をみると、強気な態度にでるわけにもいかない。
「大丈夫だ。お前が新見の居場所を教えてくれるのならば、あとはなんとかする」
井上は、あくまでも事態は自らのコントロール下にあると言外に伝える。しかし、それは上田の認識とは異なるものであった。
「藤森の方はどうだ。もし何かあれば、荒木は何をするかわからないぞ」
上田は先の会談を踏まえ、井上に忠告する。しかし、井上には見え透いた脅しにしか聞こえない。
「もちろん無事だ。完全黙秘を続けているがな」
藤森の残りエネルギーについて井上は口外しなかったが、上田もすでに独自の情報収集を行い、取り調べ室を出てからの時間を逆算することで、藤森が活動可能な残り時間を割り出している。ただし、あくまでもそれは予測であり、井上側が本気になれば密室で強制的に半覚醒モードに切り替えることは可能である。
一方で、上田はすでに藤森の持っている情報が流れることは織り込み済みだった。上田にとって最悪の事態は、藤森が消されることで、荒木が暴走することである。藤森が無事に引き渡されるならばそれでいい。
「上田、お前は野党側についたのか」
少しの間、物思いに耽っていた上田に対して、井上は自らの懸念を率直に尋ねた。
「まさか、それはありえん」
この答えは上田の本心であったし、井上もそれを本人の口から聞けて少しだけ安心した。
「ならば、次の政権にはお前も加われ。そうすれば盤石だ」
ライバルである上田を政権に引き入れることは、これまで好き勝手にできた井上にとってのリスクも大きかったが、今や野党勢力を抑えることの方が重要であった。わずかながら野党への離脱者が出たこともある。上田の人気への期待、そして盤石な与党体制を見せつけることで、政権の安定化を図る狙いがあった。
「そうだな、お前が次も大統領に当選したら考えてもいい」
上田はそう曖昧に答えたが、次期大統領選挙には自分も出る決意を固めていた。井上は次の選挙では与党内の統一候補争いのライバルになるとは知らずに、その答えに満足した。
「もうひとつ聞かせろ。あの藤森を引き取ってどうするつもりだ」
その確認は井上としては当然しておかなければならないことだったし、上田も素直に答えた。
「別に特別なことをすることはない。公の法の元、決められたように処理をする。それだけだ」
上田がそういうのであれば、おそらくそうなのだろう。このような場で嘘をつく人間ではない。井上は、そういった部分では上田を信用していた。
「それで野党を抑えられるのか」
「少なくとも荒木が自暴自棄になって、とんでもないことを仕出かすのは俺が責任を持って抑えよう。あとはこちらが渡す材料をお前がどう使うかだ」
これで新見の身柄確保は時間の問題。これならば事前案の通り、数日後に藤森を引き渡すということでいけるはずだ。即時引き渡しを求められても、「準備に時間がかかる」など理由はいくらでもつけられる。
井上は「これで決着は時間の問題だ」と、自らの勝利を確信した。
「ははは、それにしても皮肉なものだな。昔は密閉された会議室で顔を合わせて、こんな風にお互いに考えていることを探り合うこともなかったのにな」
一般記憶が規制される以前は、ある意味で人類全体が一つ記憶を共有し、それが人類全体の意思につながっていた。だからこそまとまってやってこられた。もちろん、そこには負の感情や辛い記憶、くだらない、情けない、馬鹿げた記憶も数多く存在した。かつて、この場所で、それは必要ないと主張したのが井上であり、それも必要だと主張したのが上田である。
「なにが言いたいのだ」
井上はそう尋ねたが、それがわからないこと、そう尋ねてしまうことこそが、その答えであった。
一般記憶の規制当初は特に問題なかった。しかし、それはあくまでも表面上のことである。その水面下では見えない歪が生まれており、それが、この10年あまりの年月で拡大していった。そして満を持して水面に現れたのが、今回の一連の事態ということになるだろう。
それは、一般記憶の共有が担保していた人類同士の信頼。人類同士の理解。人類同士の共感。その喪失を意味していたのだと、今の上田は強く実感していた。
「井上、お前は記憶ドラッグを使う連中の気持ちがわかるか」
「わからんな。お前はわかるのか」
めずらしく感情的な物言いをする上田に、井上は「そんな当たり前のこと」というように答える。
「いや、俺もわからん。ただ、少しわかってきた気もする……」
上田はそう自嘲気味にいうと、ポケットから一つの外部記憶メディアを取り出した。記憶コンテンツを記憶させるためによく使われるものだった。
「これを使えば、お前にも少しは分かるだろうさ」
「誰が使うか、そんなもの」
いかにも井上らしい答えに、上田は少しなつかしい気持ちになり可笑しかったが、すぐに気持ちを切り替えると切り出す。
「さて、そろそろ本題にいこう。この中には、ある記憶が収められている。これを見れば、新見の居場所は間違いなくわかるが、どうする」
「こちらにも準備がある。三日後に交換ということでどうだ」
井上は上田に少しごねられることを想定していたが、上田の返事は「それでいい」というものだった。
こうして、長年人類を引っ張ってきた指導者2名の秘密会談は終了した。