趣味のドライブ中、もっぱら車内を流れるのはAMラジオです。別にこだわりがあるわけではありませんが、あえて理由を挙げるのであれば、どんな山道をドライブしていても受信状況が比較的良好なこと、そして個人的にはまったく興味のないような、いわば意図しない雑多な情報が流れることです。
普段、聴かないジャンルの音楽や小噺、ささいな日常の出来事などのミクロなニュースといった私が知らない世界の情報が流れてくる。日常から離れた気晴らしであり、私の趣味である行き先もあいまいな気ままなドライブ、そのお供にはなかなかに良いものです。
一方で、日常では必要な情報を見聞きする機会が圧倒的に多くなります。これは多くの現代人が私と同じでしょう。チェックしなければならない情報は山程あり、これに一通り目を通すだけで半日終わってしまうなんて人もいるかもしれません。インターネットの普及で日常、チェックしなければならない情報は加速的に増えたように思えます。
インターネットが世間一般に普及したこの30年ほどで、情報を入手する方法は段階的にではありますが大きく変わりました。この変化をちょっと憂がった言い方でいうならば、「自分が興味のない情報にアクセスする機会が減っていった」、そんな言葉でも表せそうです。
インターネットが普及した理由は、その便利さはもちろんですが、個人が好きなコンテンツ、興味がある情報を気軽に楽しめるという部分にありました。「ネットサーフィン」という言葉を今はあまり聞くことがなくなりましたが、興味がある情報、調べたい情報が掲載されたサイトを見て、そこでの発見からさらに新たな興味が湧いて、さらに知りたいという思いから次のサイトへ移動する。こうした発見と好奇心の連鎖でウェブサイトをはしごすることをサーフィンに喩えたのは言い得て妙でありました。私も、ネットで調べ物をしていて、時間を忘れてしまった経験があります。
このような発見と好奇心のサイクルは、研究や思考実験の過程でも行われることです。ある文献を読んで新たな言葉を知れば、その言葉を調べて、新たな文献に行き着く。その新たな文献には、今度は新たな人物が紹介されていて、次はその人物の著作を読む。こういった知識を広げ深めていく過程の繰り返しは、もちろんインターネットが普及する前からあったことでしたが、インターネットはそれを手軽にしてくれたということです。
一方で、インターネットの普及によって書店や図書館で紙の文献を目にする機会は減っていくことになりました。
紙は、いうまでもなく人類文明において最も重要度が高い発明品の一つです。メモを取る、知識をまとめて蓄積する、手紙を書く、契約する、法律を定めて公布する、設計図を描く、計算を行う……。人類は20世紀までの、こういったほとんどの人の営みを「紙」を使って行ってきました。それが少しずつですが、確実に変化したのがこの30年。それを耳慣れた言葉でいうならば「デジタル化」ということになるでしょう。朝の通勤電車で新聞や雑誌を読むサラリーマンはいなくなり、代わってスマートフォンを手にする人がほとんどです。
現在のインターネットは、とくに近年AIの発展によって、よりその人向けのコンテンツを提供するようなシステムになっています。ちょっと気になって調べたワード、見出しが気になって読んだ記事、クリックした動画に基づいて、オススメの広告やコンテンツがリストアップされ表示されます。そんな現在の界隈の状況は、インターネットという高速道路が完全に整備され、カーナビが伝えるままにドライブするような感じがします。寄り道するような余地はありません。
こうなってくると、本当に「自分が興味のない情報にアクセスする機会」がなくなっていきます。紙の新聞をめくっていた頃は、何気なく目にした記事から、なんの興味もなかった自分の知らない世界を知るような体験、経験をする機会というものがありました。これは他の事柄でもそうです。欲しい本を書棚から探していて、その隣に並んでいる別の本に興味を持ったり、買い物に行って別のなにかを買ってしまうようなことだったり、一見すると無駄な事が、あとで有意義なものになったりしたものです。
かつてのアナログ世界は今から思えば大いに無駄だらけの世界でした。人類社会の発展を考えるのであれば、「脱物質化」は必然的な流れであることは間違いありません。ペーパレス化による書類、ネットショップによる店舗、テレワークによるオフィス、オンライン授業による教室といった具合に、さまざまな物質離れが起こっています。
しかしながら、だからこそ私は休日に、カーナビのスイッチを切り、高速道路を使わず、AMラジオをBGMにドライブを楽しむのかもしれません。