この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
3-3 有機物時代の体に近づける
飲料システム
人類全体が1意識1人体制度に移行し、感染のリスクが全くなくなったので、人の移動は自由になり、国境がなくなり、世界政府が力を取り戻し、今後の人体の仕様については世界政府が扱うことになった。
そんな中で二人の人体技術者、山田と田中はこんな会話をしていた。
「人体研究所も世界政府の管轄となった。世界政府は、人体を今よりさらに有機時代の人体に近づける方針、を打ち出した。人体研究所もその方針に沿って研究を進めるということだ。今までは脳ソフトの研究、特にデジタルウイルス対策ソフトが主テーマだったが、1意識1人体制度になった今、デジタルウイルスの感染リスクが全くなくなったので、脳以外を主テーマにすることを決定したようだ。我々のグループに課されたテーマは飲料である。固形物の食事はハードルが高いので、当面液体の飲料を飲むシステムの開発を行うことになった。君も知っていると思うが前世代の人類、つまり有機物の体を持つ先祖は飲食によりエネルギーを得ていた」
「もちろん知っています。私たちのエネルギーは電力なので効率が良いが、飲食だと効率が非常に悪い。飲食した物の一部がエネルギーとして使用されるが、大半はカスとして人体から排出される」
「そのとおり。しかしながらだ、その代わりに飲食には快楽が伴う。無論、私は経験したことはないが飲食物の種類により快楽の種類は違うようだ。我々も充電時に使用する、定電圧充電、定電流充電、間欠充電、を組み合わせた20種類の充電方法を用いた、20種類それぞれに別の味を割り当てた充電食事メニューがあり、一応それぞれ快楽が異なる様にソフトが組み込まれているが、あくまでもその場しのぎに作っただけのものだ」
「私も少し勉強しました。液体には快楽の基の一つである味と、電力に相当するカロリーがあり、液体の種類によって味とカロリーが異なる、ということですね。カロリーには種類がないので電力量に対応させるのは簡単ですね。でも、いくらカロリーをとっても充電できるわけではない。このへんはどのようにするのですか」
「我々の体の充電の仕方は、充電方式の組み合わせによるあのまやかしの食事と、寝ている間にベッドの表面から出る電磁波により充電される方法の2つがあるが、あのまやかしの食事で充電する人は少ないだろう。君はどちらを使用しているかね」
「フォーマルな席で充電食事をしたことはありますが、招待されて仕方なく食事しただけで、ほとんどが寝ながらの充電です」
「飲料の摂取カロリーと充電量について考えてみよう。摂取カロリーに応じたカロリー指数を出すことになっている。すなわちカロリーの高い飲料をたくさん飲むと満腹指数とカロリー指数が上昇するということだ。カロリー指数と睡眠中の充電量を紐づける必要がある」
「カロリー指数に応じた電力量を睡眠中に充電できるということですね」
「その通りだ」
「カロリーは単純な問題ですが味はそうは行きません。主な味だけでも5種類あるということです。甘味、塩味、酸味、苦み、旨味、それと味とは別の、酔い味があるようですね。酔い味とはどのようなものですか」
「何でもアルコールという酔い味のある液体を飲むと脳が快楽指数の一つの酔い指数を上げるらしい。その他の指数も連動して上がる複雑な反応の様だ」
「アルコールを飲むと色々な指数が同時に上がるのですね。それなら酔い指数でなくてアルコール指数にしましょう」
「色々な指数が同時に上がるといったが厳密には同時ではないらしい。アルコール指数の扱いは厄介だ」
「アルコール指数や甘味指数のためにはどのような液体を配合すればよいのでしょうか」
「アルコール指数は他の味の指数と意味が違う。甘味指数や塩味指数はその液体が喉を通過するときだけ発生するものだが、アルコール指数は飲む量に関連する指数だ。その意味ではカロリー指数と似たものだ。味を付けるのは味に対応した液体を配合するのではなく、液体の中に味覚番号が書き込まれた超微小デジタル味覚チップを混ぜることだ。液体が喉を通過するときに喉のセンサーで番号を検出し、チップの配合密度により、その味の指数が決まることになる」
「そのやり方だと、充電食事とあまり変わらないのではないですか。従来の有機物の人間が味わう、液体の種類による味とは全く違うでしょう」
「そうではない。有機物の人間にも味覚センサーがあり、センサーでとらえた味覚の強度を脳に伝達して、脳で味を合成していた。味覚番号を読み取る方式と根本的な違いはない。要は如何に脳内反応を起こさせるかだ」
「味のことはわかりました。飲んだ液体は喉を通過した後どのようになるのですか。飲めば飲むほど体の中に液体が溜まってしまいます」
「その問題は他のグループで検討しているようだ。何でも喉を通過した液体は胃袋という袋に入り、胃袋には液体の出口と固体の出口があり、液体の出口から膀胱という袋に液体が入り溜まるようだ。膀胱が液体で満たされると尿意という指数が上がり、尿意指数がある程度上がったらトイレという場所に行って尿を排出したくなるようだ。胃袋には固体の出口があるといったが、当面は固体を口から喉に入れる食事はしないので、将来に備えて固体の出口を作ったようだ」
「我々のグループが担当するのはどの部分でしょうか」
「味覚番号読み取りセンサーは既製品で十分のようだ。液体への超微小デジタルチップの配合は酒類・飲料開発部門で行っている。我々が行うのは各種の指数を扱う大脳のソフトウエアだ。これが最も難しい所で、飲料プロジェクトの成否は我々にかかっている」
このようにして飲料プロジェクトは進行し、また一歩有機物の人間に近づいた。
無機人類仕様プロジェクト
多くの関係者や専門家からなる「無機人類仕様プロジェクト」が組織され、今後の人類の仕様について長時間検討し仕様案を作成した。最も検討時間を要したのは生死の繰り返しについてであり、生死の主要な議論は次のようである。
「死を導入すると、誕生も導入しなければならない。死は意識をなくし、人体を分解するだけで良いので簡単だが、誕生はそうはいかない。人体の大脳に、過去の記憶を持たない意識データを書き込めば、その瞬間に人は誕生するが、それだけだとあまりにも有機時代とかけ離れすぎる。だからといって出産方式は技術的にも難しいし、育てて人体を大きくするのはあまりにも手間がかかりすぎ、たとえ技術ができたとしても誰も賛同しないだろう」
「しかし、有機時代は、[誕生と死]が全ての考え方の根源となっていた。それを無視することは、有機時代の人類に近づけること自体の意味がなくなる」
「有機時代の死の定義は心臓が止まることだった。心臓が止まればやがて脳が腐り、脳が腐れば記憶も無くなるのだから、心臓停止を死と定義するのは合理的な定義ということができる。すなわち逆算すれば我々の体にも心臓を導入すれば良いということになる」
「そのアイデアを合理的な定義ということはできない。有機時代では、心臓停止の前に多くの人は認知症により記憶をなくしていたようだ。だから正確には有機時代の死とは、老化すると徐々に死んでゆくことだ。徐々に記憶を失い死んでゆき、最後に心臓が止まり体が腐る」
「徐々に記憶を失うようにすることはソフトの工夫でできるだろうが、徐々に記憶を失うえば家族の手間が増える。やはり心臓を導入しなければ解決しない」
「前触れもなく急に心臓が停止したら周りが混乱する。予告期間が必要では」
「予告すると本人が恐怖心を持つだろう。[助けてくれー]と騒がられたらどうしようもない」
「有機時代には、恐怖心の問題はなかったのだろうか」
「老化すると体がボロボロになり、それ以上生き続けることを望まなかったのだろう。また認知症がひどくなると、死について考えることもなくなるのだろう」
「それなら、我々の仕様も同じ様にすれば良い」
「我々にはどのような仕様にも設計できるのに、わざわざそんなひどい仕様を出したらみんなから馬鹿にされる」
「我々は本当の死の定義も知ってしまった。我々の体は劣化なしに使用できる。何よりも生きている、という既得権がある。その既得権を放棄することは誰も望まないだろう」
「死が無ければ面倒な誕生の仕様を考える必要はない。現状のまま、生死はなくそう」
この様に現状のまま生死を設けないことをプロジェクトの案とすることにした。これに対し誰も異を唱える者はいなかった。
その他の仕様案については次のようになった。
1 固形の食品システムを導入し、飲食システムを完成させる。
2 大便の概念を加え、これに伴う処理システムを構築する。
3 性行為のシステムをさらに有機時代に近づけ、また質を改良する。
4 呼吸を設け、嗅覚センサーを導入する。
5 目の望遠モード、録画モードを廃止する。
6 耳の高感度モード、録音モードを廃止する。
7 大脳、小脳の今後の改良を禁止する。
8 体が有機物であることに起因する問題、[汗をかく、垢で汚れる、快適温度範囲が狭い、劣化し易い]などのマイナス仕様は導入しない。
9 循環家族制度に対応させる。
以上の仕様案は政府で承認され、国民投票で圧倒的賛同を受け、実施することになった。
人体技術者同士の会話
人体の仕様が新仕様に変更され、しばらくたった後の、人体技術者同士の食事しながらの会話である。
「食事は実に楽しい。飲食システムは大成功だ」
「当初は[有機物時代の人類にできるだけ近づける]との方針だったが、結局いいとこ取りだ。都合の悪い所は全て仕様から外してしまった。すでに生存している我々にとって最も都合の悪い[生死]は真っ先に仕様から外された」
「しかし、都合の悪い仕様も一部には残っている」
「それはどのような仕様だ」
「この飲食システムにもそれがある。最初のうちは料理や酒がうまいが、飲食しているうちにだんだん満腹指数が上がり、それに伴い快楽指数が下がってくる。満腹指数を設けなければ、快楽指数の高い食事をいつまでも続けることができる」
「それについては性行為の仕様のとき十分に議論した。あの議論で性行為にも満腹指数のような指数を設けることにした。その指数を設けなければ性行為ばかりしている馬鹿ップルだらけになり、国は破綻してしまう。満腹指数は国を守る合理的な仕様だ」
「我々の満腹指数も最初はカロリー指数を基にした単純な計算で求めていたが、最終的には各指数がその他の指数により影響を受けるような仕様になり、個人がもともと持っている指数も加味しているため、料理の好みや、その他の好みや性格などにも影響し、個性が大きくなった。アバター時代や意識時代の単純な人体仕様とは全く異なる」
「アバター時代や意識時代は人体を共有して使用する様になっていた。人体を移動するたびに異なる個性になったのでは使い物にならない」
「しかし、今でも同じサイズなら人体そのものは同じ仕様になっている。ここにいる全員が普通サイズを使用しているので、全員の基本体力は同じはずだ」
「人体の各機能の最大スペックは全て同じだが、小脳ソフトの個性により各機能の能力は指数化され、指数が100の場合がその機能の最大能力となる。私は腕力が強いが、腕力に関連する5機能のうちの4つの機能の指数が高いためだ。君は足が速いが、足の速さに関しては腕力程簡単ではない。約千個の指数の複雑な組み合わせだ。結局、人体の各機能の最大スペックは同じだが、実質的に運動能力も個人差が非常に大きい。またトレーニングによってサッカーが上達する人もいれば、努力してもあまり上達しない人もいる」
「満腹指数の話に戻ろう。満腹指数を導入した1つの理由は有機物時代の太りすぎにあったようだ。有機物の人体では食事によりカロリーを摂取し、必要以上カロリーを摂取すると体内に特殊な有機物を蓄積する、すなわち太るようだ。太りすぎることは有機物の体にとって悪いそうだ。有機物時代の人類の人体にも色々と個性があったようだ。摂取カロリー量に対し満腹指数があまり大きくならない人は食事を過剰摂取しやすくなりエネルギーを人体に蓄えることで太るようだ」
「我々も満腹指数が少なく出る傾向の人がいるが、我々にはどのような問題があるのだろうか」
「食事を過剰摂取するとカロリー指数が大きくなる。カロリー指数が大きいと、寝ている時に満充電される。1日の電力消費量は満充電時の2割程度だから、過剰摂取を続けると常に充電量は満充電付近となる。常に満充電付近でバッテリーを使用するとバッテリーの劣化が少し早くなるが、劣化したら取り換えれば良いのであまり大きな問題ではない」
「性行為の満腹指数の問題も社会にとって問題ない、ということか」
「性行為の場合は別だ。行為時間が大幅に増え、労働時間の縮小に繋がる。社会にとって大問題だ」
「大小便の問題はどうなのだ。便器の中にある便は汚く見えるようにソフトが組まれているが、逆に考えれば便器の外では汚く見えない、ということか。小便は水で、大便はカーボンで、その中にわずかな量の味覚チップ粒子が分散しているだけなのに、何でわざわざ汚く見えるようにしているのか」
「汚く見えないと便器の中の便を掬い取って再利用する人もいるだろう。特にアルコール飲料を大量に飲むと、その後の小便はアルコール飲料そのものだ。再利用されれば酒税が減ってしまう」
「トイレの外で小便をすれば何回でも繰り返してアルコール飲料を飲むことができることになる」
「それを防止するためにトイレ以外では便ができないようにプログラムされている」
「1意識1人体制度になってから50年経った。今ではアバター時代や意識時代は懐かしい記憶の中にある。結局、デジタルウイルスの問題は別にして、アバター時代と1意識1人体時代の差は何なのだろう」
「今ではこのように食事ができる。性行為も充実している。アバター時代にも性行為は有り、質は今とだいぶ違うようだが本質的な違いはないようだ。食事はどうだろう。ハードウエアとしての人体と、ソフトウエアとしての意識データに、両方に飲食システムを組み込めば、アバター時代でも食事を楽しめた、ということか」
「飲食システムを組み込めば食事を楽しめるようになるだろうが、重大な問題がある。レストランで食事中に各指数が変化し満足指数も上がる。レストランの移動室から意識が自宅の人体に戻っても、各指数は意識データの中にあるので自宅でもレストランの食事に満足していられ、この点は問題ない。問題なのはレストランに残された人体だ。食事後は人体の胃袋の中に飲食物が残っていので、しばらく待ってレストランで排便をしてからでないと家に帰れないことになる」
「食事の問題ではないが、人体の問題として同じような問題を私も経験した。すべて同じ仕様の人体なので、どの人体を使用しても全く同じだといわれていたが、充電量は人体により異なる。私も電池切れ寸前の人体に乗り移ったことがあった」
「乗り移る前に満充電することを制度化する案もあったが、面倒くさいという意見が多数で廃案になった。乗り移り先の人体の充電量を表示する案もあったが、そうすると満充電に近い人体が先に使われ、電池切れ寸前の人体は放置されるという理由でこれも廃案になった。結局人体を保有している法人が常に満充電することが義務化された。そのためアバター状態での充電はほとんど必要なくなり、充電の方式の組み合わせによるまやかしの食事はほとんどなくなった」