この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
奇妙なこだわり
道路を中心としたインフラを整備しながら人口を増やし、K氏の文明は20年後には100万人に達した。正式に政府機関を設ける事になり、西田氏が初代大統領に就任した。
5つの基本方針の下、〔物体至上主義〕を基本理念とし憲法が制定された。情報産業は原則禁止され、超リアルな世界を目指す事になった。理念検討部門が法務省となり、その下に物体局を設けた。物体局を設けたのは情報産業や通信産業などの、物体が主体でない研究は極力排除し、物体至上主義を理念の柱にすえるのが主な目的である。
物体局のクラウド研究グループが、クラウド中に入り込んだ150億人について自由討論を行った。
「150億人がクラウド中にデータとして消えてしまった。クラウドの中でバーチャルな世界を構築しているようだ。150億人といってもソフトとデータだけの人間だ。人間と言うことは適切でないかも知れない。単なるデータと捉えることもできる」
「150億人のバーチャル世界といっても、所詮あの分厚いガラスに覆われた機械の中だけの世界だ。クラウドの主体はコンピュータとメモリーだけだ。現在の最新技術を使えば、150億人が暮らす巨大なクラウド空間は僅か2リットルの固体水素メモリーで構成できる」
「彼らは非常に小さな物体の中で、宇宙とも言える巨大なバーチャル空間を作って満足している。しかし我々も体からの信号を脳で感じて生きている。体があろうと無かろうと同じ信号を受ければ脳は同じように感じる」
「しかし我々にはリアルな体とリアルな大地とリアルな機械や建物がある。周り中リアルだらけだ」
「我々の体は第1世代の人類の体と大きな違いはない。効率の悪い有機物による構成から効率が非常に良い無機物になっただけだ。体は手足を用いて作業を行う機械の役割と、性交により快楽を得ることが主な役割で、無機物に置き換わっても大きな違和感がない。むしろ有機物の体の方がごちゃごちゃしていて無駄が多く違和感が大きい。しかし脳については別だ。我々の脳は有機物の脳の役割をそっくりそのまま電子回路に置き換えただけなので機能は全く同じだ。有機脳を電子回路に置き換えた当時は、脳もそれなりの大きさがあったが、その後集積度がどんどん上がり、今では1mmにも満たない。これには違和感がありすぎる」
「だからといって有機脳に戻すのは合理的でない。有機脳は扱いにくい。ちょっとしたことで腐ってしまう。だいいち有機物の基になるカーボンがこの星にはほとんどない」
「有機物の脳は論外だが、もっと脳を大きくできないだろうか。1mmにも満たない脳ではどう見ても頭が悪そうだ。大昔の半導体技術を使って大きな脳にできないだろうか」
「集積度が極端に小さな大昔のメモリーを使えば無論できる。しかし大昔の機械を作るのは大変だ。もっと簡単にできる技術はないか」
「メモリーは集積度の高い順に、超固体水素メモリー、固体水素メモリー、炭素原子メモリー、我々の脳に使用している3次元シリコンメモリー、2次元シリコンメモリー、トランジスタ、真空管だ。真空管を使おう。無論、全てを真空管に置き換えたら、この星には住めない大きさになってしまう。今の脳に使用している3次元シリコンメモリーを9分割して間に8個の真空管を設けよう。真空管なら石英だらけのこの星でも簡単に製造することができる。真空管の大きさを調整して、頭蓋骨に丁度収まる大きさにしよう。根本的な方法ではないが第1世代の人間の脳の特性にも近づく。何よりも脳が大きく立派になる」
「真空管は劣化する。壊れたら死んでしまう。衝撃に弱い。電力を大量に消費する。大きく立派になるが欠点ばかりだ」
「その欠点が良いのだ。衝撃に弱いので強い頭蓋骨と衝撃吸収の機構が必要だ。頭の構造が益々複雑になる。劣化すれば点いたり消えたりする。これはボケの始まりだ。完全につかなくなったら死んだことになる。しかし記憶は保存されているので真空管を取り替えれば生き返る。電力を大量消費するようになれば電力を得るための工夫や努力が必要になる」
「物作りのための産業の復活が必要だ。ただし質量電池は別だ。危険だし、いくらでも電力を得ることができ、電力を得るための努力が必要なくなる。情報関連産業に関連する物づくりも原則禁止するべきだ」
物体局により議論がまとめられ、政府に報告された。政府は新たな産業に真空管産業も加えることにした。
進展による破滅、後退による繁栄
物体局のクラウド研究グループによるフリーディスカッションが再開された。
「我々も一部はそうだが、どうして物体からデータの世界になってしまったのだろう。歴史的にはどうなのだろうか」
「地球上の生物そのものがDNAというデータが主役なので、必然的という見方もできる。しかし地球上に人類が誕生したばかりの時は、まだほとんどデータを使っていなかった。人類の中でも手先が器用な種類がいた事が事の始まりだ。知能はそこそこだが手先が器用な人類が文字を扱うようになった。これがデータ化の第1歩だ。やがて印刷技術が進展し、技術を共有できるようになった。真空管程度でとどまれば問題はなかったが、半導体が発明され、情報技術はとどまることなく進展を続けた。物体を伴う技術ならば技術の爆発的な進展は起こらないが、本質的には情報には物体は伴わない。いくらでも進展する。行き着く先は破滅だ。第1世代の人類は破滅を避けるために技術の進展を禁止し、第2世代に移行した。だから第2世代の人類は小惑星の衝突まで60万年も繁栄した。情報技術だけでなく、ほかの技術も速度こそ異なるが同じことだ。技術だけでなく思想でも同じだ。一方向に行きすぎるとやがて破滅につながる。第1世代の末期でも民主主義が行き過ぎ破滅へと向かっていた。また主に宗教の影響を受け、例えば生や死の考え方は我々から見れば全くの見当違いで、いわば天動説を信じていたようなものだった」
「このように議論している我々も物体至上主義という一方向で進んでいる。これは破滅にはつながらないのか」
「物体至上主義は技術の逆行だ。いくら技術が後退しても自滅にはつながらない。ただし軍事技術は別だ。軍事技術が無ければ敵が攻めてきたらやられてしまう」
政府は物体局の報告を受け、一般用電源としての質量電池の製造・使用禁止の方針を打ち出した。太陽エネルギーから電力を得る方法も、隕石に弱いソーラーパネルの使用を段階的に禁止し、太陽エネルギーを別の形で電気エネルギーに変換する発電機の開発を行うことを決め、エネルギー庁を新設した。
クラウド記念館
エネルギー庁の関連技術者は早速太陽光をエネルギー源とする新たな発電機について議論した。
「ソーラーパネルは隕石に弱いというが、この星の表面は石英だらけだ。超強化ガラスでソーラーパネルを保護すればよいのではないか」
「ソーラーパネルはシリコンウエハを使用する点で大昔のメモリー技術と共通したところがある。その点もありソーラーパネルは禁止の方向だ。ソーラーパネルとできるだけかけ離れた、物質を沢山使用する巨大な発電機を目指そう」
「この星の表面は石英だらけだ。巨大なレンズも反射鏡も材料には事欠かない。それにこの星は自転していないので太陽光の集光はやり易い。太陽光を集光し数十万度の熱を作り、温度差で発電するのはどうだろう」
「大規模温度差発電は温度差による圧力差を使ったやり方が良い。適当な液体があればやり易いがこの星には液体や液体の基になる物質が無い。気体ならシリコンを変成し気体シリコンができる。気体では相移転による効果は期待できないが、高温に過熱すれば膨張するし圧力が高くなる。膨張エネルギーを運動エネルギーに変え巨大な発電機を回せば良い。円状に設けたエンジン群を回転させシリンダーヘッドを次々と加熱してピストンを動かしても良いし、そのほかにも色々な方法が考えられる。無論変成気体は外に放出せずに内部を循環させる。10万度から5千度までを動作領域にすれば相当な効率になるだろう」
効率80%の巨大発電システムが出来上がり、この星の太陽光が当たるところ1万箇所に巨大な太陽光発電機が設置され、ソーラーパネルに替わってこの星の全エネルギーの発電を行うようになった。その電力を利用した沢山の製造工場も新たに建造された。
真空管も大量に製造され、脳に8個の真空管を設けたリアルな人間の人口は30億人に達した。
クラウド内部をモニターした結果、クラウド内のバーチャル人の人口は300億人に達していた。超個体水素メモリーを更に改良し、クラウドに使用されているプロセッサーやメモリー全体を10センチ立方の中に閉じ込め、クラウド記念館を作り展示した。
展示物の前には〔400年前まで我々と一緒にいた、我々と同等の知能を有する人間がバーチャルな文明世界を作り、この10センチ立方の装置の中のクラウド空間の中で暮らしている。現在の人口は300億人〕という趣旨の説明看板を掲げた。
関連する資料も多数展示され、毎日沢山の人が見学に訪れた。見学者は一様に、巨大な発電機などに支えられている自分達が暮らしているリアルな世界に対し、このようなバーチャルな世界が存在している事に理解できず、間違っても自分達の世界がこのようなバーチャル世界になってはならないと強く感じた。