この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
締め出し事件
月面の自宅から第2地球の職場に出勤する時に、自宅にも本人が残るようになった。自宅に本人が残っていれば、第2地球から帰宅する時、帰宅する事を連絡すれば自宅の自分が移動室に入り、月面の自宅の自分の体に戻る事ができる。他人の手をわずらわす事なく、何時でも自宅と職場を行き来できる便利な仕組みである。
ただ、この便利な仕組みにも問題がひそんでいた。自宅の自分は待機しているだけで、やる事がない、暇をもてあますという問題である。退屈はモチベーションに直結する。快楽調査プロジェクトの実験でも、何のミッションも与えられずに、ただ待機するだけでは満足度が低下する事は明らかだった。
そして危惧していた事件が発生した。自分による自分の締め出し事件である。
帰宅時間は4時に予定していた。自宅に残された自分は暇なので目覚ましを3時半に設定して昼寝した。第2地球の職場で小さな事故が発生した。事故対応に追われ、自宅で待機している自分に連絡するのを忘れてしまった。3時半に目覚めた自宅の自分は帰宅の連絡を待っていた。待ちくたびれた自分が怒り出し、自宅を出て外に遊びに行ってしまった。事故処理が終了し第2地球の自分が自宅に帰宅しようとしたが、自宅の自分と連絡が取れず、一晩、第2地球の作業場で過ごす事になった。自分に自分が締め出されてしまったというわけである。
翌朝早朝、家族がこの事を知り、遊びから返ってきた当人を叱り、やっと第2地球から当人が自宅に戻る事ができた。戻ってきた当人に家族は「お前の性格はどうなっているのだ」と言ったが、当人は苦笑いする他なかった。
このようなトラブルにより、やはり二重存在における問題が再確認された。そして、その問題の解決方法が議論されることになる。
「緊急時は別として、日常生活では二重存在には問題が多い」
「自宅に待機している側の当人の満足度が低下してしまう。しかしこれ自体は地上で働く当人の記憶に置き換わるので、満足度の低下が蓄積される事はない。問題は自宅の当人が暇を持て余した結果、トラブルを起こす事だ」
「自宅に待機している時、寝ていれば満足度は下がらない。第2地球の当人から連絡が入った時に目覚めるようにすれば良いのではないか」
「寝てなくても、自我を持たない状態にしておけば良い。自宅に待機するのは当人でなく、単なる知的ロボットにしておけば良い。当人が第2地球に出勤した後の、いわば抜け殻には待機用の標準ソフトを作り、それをインストールすれば良い」
このような議論を経て、自宅で待つ自分の人体には、当人とは関係ない待機用プログラムを使用する事になった。この方式は大成功だった。それ以降、月面の自宅から第2地球の職場への出勤に対するトラブルはなくなり、またこのシステムの良さが評判となった。
上田政権は、この方式を月の全家庭や職場にも採用する事を決定した。またこの方式の実行にあたり、人体の所有権について、次のように定めた。
1.正式な人体は自宅で使用する人体とし、その人体を正式な人体として登記する。
2.職場では、その職場が所属する法人が、作業用の人体として保有、管理する。
3.各施設には、その施設が所属する法人が、その施設で使用する人体を保有、管理する。
このように本人の正式な人体は自宅にある1体とし、職場では仕事に必要な人体を装置として保有し、レジャーランド等、各施設にもその目的に応じた人体を装置として保有する事になった。
人体管理改革
二重存在における課題を受けて、人体管理の規制改革が進んだ。
事務系の職場では、通常社員1人あたり1体が用意され、労働作業現場では仕事内容に応じて1人あたり1~3体が用意され、スポーツ観戦用には定員数の人体が用意される。
また、会社などには来客用の人体も用意されている。一般的に資金に余裕がある会社では十分な数の人体が用意されている。大家族では自宅にも来客用の人体が用意されている場合もあり、家族のそれぞれの人体と来客用の人体は、明確な区別が義務付けられている。
人体に対する大きな考え方は、あくまでも自分の人体は正式に登記された1体であり、そのほかの人体は仕事やその他の目的で使用する装置としての扱いである。
このような制度となり、政府は人体について厳重な管理を行うようになった。多くの従業員を抱える大企業には、抜き打ち調査が行われた。特に巨大企業には必要以上に人体を保有していないか、政府の監視の目が注がれようになった。
政府が恐れているのは、大量の人体を保有する巨大企業が、保有している大量の人体を使用して大量の人員を動員し、反政府的な活動を行う事である。巨大な宗教団体についても同様であり、また家庭への調査も実施された。
この制度の運用後の一般家庭や職場の様子は次のようである。6人家族の鈴木家の場合について説明する。
- 勤務先や勤務時間により1人ずつ自宅の移動室に入り、会社の移動室に用意された作業用の人体に乗り換え出勤する。
- 家には、待機用のソフトがインストールされた家族6人用の人体と来客用の人体が、椅子に座って待機している。
- 仕事が終わると、会社の移動室に入り、自宅に待機している自分の人体を呼び出し、準備が済んだら移動ボタンを押す。
- 自宅に待機している本人の人体は、顔と声はそのまま残されて、記憶データだけが送信され、自宅の移動室に鈴木氏が戻ってくる。
- 会社で使用した人体の顔と声は初期化され、待機用ソフトがインストールされロボット状態になり、移動室を出て待機場所に待機している。
地球に出勤するときの待機ソフトによる家庭での待機風景
このように日常の移動は、極近くへ移動する場合を除いて、移動先の人体に乗り換える事により行なわれる。
会社で使用する人体は、多くの場合は毎日同じ人体を使用するが、時によっては、いつも使っている人体が他の人に先に使用される事がある。この場合には同じスペックの別の人体を使用することになる。
また、遅刻などにより、いつも使用するスペックの人体が全て使用されてしまった場合は、仕方なく別のスペックの人体を使用する事もある。いつも普通サイズの人体を使用している者が、小型の人体を使用する事も、男性なのに女性の人体を使わざるを得なく、同僚に笑われる事もある。
たとえば社員100名の平均的な会社では、普通サイズの人体105体、大型の人体5体、小型の人体5体、来客専用の普通サイズの人体5体を所有している。通常の業務では普通サイズの人体を使用するが、重量物運搬の業務が発生した場合には、社内で一時的に大型の人体に乗り換える。
また社屋の簡単な補修工事が必要になった場合、社内にそれに適した人体がある場合には補修業者はその人体を使用するが、適した人体が無かった場合や特殊な作業、たとえば建物内の狭い空間での作業が必要な場合は、小型で細い体の業者が車で来る場合もある。 常時は車での人の移動は少ないが、祝賀エベントがあり、イベントサービス会社に頼んだ時などは、そのイベントに適した特別な体形の女性が車で来る事もある。
経営の苦しい会社では、経費削減のため予備用の人体はあまり用意されないことが多い。その会社に重要な来客の予定があり、その来客に適した予備用の人体が無かった場合、比較的新しい人体を使用している従業員を古い人体に乗り換えさて、従業員が使用していた人体を来客用に使う場合もある。
予備用の人体を多数保有する職場で働く人の満足度は上がるが、ギリギリの数しか持たない職場で働く人の満足度はさがり、その職場を去る人も多くなる。就職先を選ぶに当たっての最大の選択基準は予備用の人体の所有数にある。
また人体のメンテナンスも重要であった。古い人体で、たとえば片足の動きに異常があり、修理せずにそのまま放置している職場では、社員は足を引きずって歩くことになる。その場合、仕事の能率も、社員の満足度も下がり、このような会社は倒産するリスクを抱えることになる。企業にとって最大の財産は人体と言っても過言でなかった。
特殊人体検討プロジェクト
ここまで人体の使用ルールが確立してくると、目的に応じた特殊な人体も提供してほしい、との要望が続出し、〔特殊人体検討プロジェクト〕が発足した。
ちなみに、現在の人体の種類は次のようである。
・小型男女
・中型男女
・大型男女
・俊敏中型男女
・堅牢中型男女
・作業用低身長女性
・作業用超大型男性
工場ではフォークリフトや各種運搬機、鉱山では各種重機が使用されている。現状はこのような装置には人が乗り込み操作している。「これらを人体として作ればもっと便利になるのでは」という意見があった。この意見に対しては次のような議論が行われた。
「顔も作るのか」
「顔を作らなければ人体にならない」
「ブルドーザーに顔を作るのはあまりにも異様だ」
「人体を動かすソフトは手足があるのが前提だ。体の大小についてはそれに対応した動作を行うように自動調整できるが、足のソフトをキャタピラー用に変換するのは難しい。手も5本の指がある事が前提として作られているので、手をバケットに変換するソフトを作るのは不合理だ」
このような簡単な議論により、重機を人体として作る検討は中止された。
ダンサーやエンターテイメント目的の人体、性産業用の人体を新たに作る案もでた。エンターテイメントなどに使用する人体については全員が賛成したが、性産業用の人体については「性行為に対するソフトの充実により、今ではほとんどが正式なカップルであり、性産業は昔に比べ大幅に衰退している」との意見があり、各種エンターテイメント用の数種類の人体だけを新規に製造する事に決定した。