この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
とある研究者の報告メモ
【報告資料1】 超過激思想とGDHV(国内総人的価値)
年齢ごとの人間の平均的価値を算定する考えは、21世紀初頭に発表された当初は超過激思想とされて批判されていたが、表面化しないコミュニティにおいてその考えは熟成され、昨今では経済学における指標の一つとして公の場でも使用される事例がみられる。
年齢ごとの人間の平均的価値を算定は、概ね次のようなものである。
先進国の場合、例えば10歳児は15万ドル(約1600万円)、20歳では30万ドル(約3150万円)、30歳30万ドル(約3150万円)、40歳20万ドル(約2100万円)、50歳5万ドル(約530万円)、60歳-4万ドル(約-420万円)、70歳-25万ドル(約-2600万円)、80歳-15万ドル(約-1600万円)、90歳-10万ドル(約-1050万円)、100歳-8万ドル(約-850万円)、というように価値算定が行われる。80歳以上でマイナス幅が縮小しているのは、余命が短い分、今後必要な社会保障関係費が少ないからである。
このような考え方を基に、国の経済力の指標として、GDPと共にGDHV(国内総人的価値)を使用すべき、という考えが経済学の議論の中で広がってきた。
ただしGDHVの算定方法は、学者によりまちまちである。例えば0歳児の価値については、次のような極端な考え方も示されている。
「今後さらなるグローバル化が進むと、国際的に同一労働同一賃金という方向となる。既にIT分野ではこれが当たり前となりつつある。従って子供を大人に育てるまでの投資額が大きい先進国ほど0歳児の価値は下がる。IT分野の生涯賃金を2億円とし、ある先進国ではこの投資額が3,000万円、ある後進国では100万円とする。この場合、0歳児の価値は次のようになる。1人の人的生産利益(収入から生活に必要な費用を引いた額)は、生活費が高い先進国では2,000万円、後進国では1億5,000万円となる。これから投資額を差し引くと、0歳児の価値は、先進国ではマイナス1,000万円、後進国ではプラス1億4,900万円となる」
このような基準は、学者によって違いがあるが、共通した認識は「1人あたりのGDHVは先進国ほど低く、後進国ほど高い」という点で一致している。単純にいうのならば、これは先進国ほど生活費が高いからである。最もわかり易い例をとして、北朝鮮と米国のサイバー戦争の費用について挙げられる。サイバー戦争に必要な費用のほとんどが人件費であるため、「米国で100億ドル使っても北朝鮮の1億ドルにはとてもかなわない」となる。
GDHVは、これまで曖昧にされてきた人間のコストを明確にあぶり出したということだ。
社会保障費の増大により何度か崩壊の憂き目にあった社会では、GDHVを用いた社会的な価値基準に基づいた市民感覚が定着してきている。たとえば90歳の人が交通事故で亡くなっても、刑事上の罪は別として、遺族が慰謝料の点で騒ぎ立てるような事はなくなってきた。このような現象は、これまでには考えられなかったようなことである。
とある学者のWUNOへの意見書
【報告資料2】 過度の安全確保と過去の弊害
過去に経験した、行き過ぎた、ねじ曲がった民主主義による弊害から反省し、市民生活における過度の安全確保は見直されるべきである。
この弊害とは次のような事である。
たとえば川遊びをして子供がおぼれて死んだ場合、その川を管理していた自治体等の責任となる。すると同じ事故が起こらないように、責任が及ばないように、そこの川遊びを規制する。同様に公園の遊具で怪我を負うと、その遊具の使用を禁止する。
このように事故が起こる度に、関係者は同じ事故が起こらないように、また事故による責任が自分たちに及ばないように規制する。
この積み重ねにより事故は減少するが、子供たちの遊ぶ環境には次々と規制の杭が打たれ、子育てに多くの費用がかかるようになり、また子供は遊び場を失い、遊びの中心はデジタルゲームとなった。
事故が起こるたびに社会全体がその事故の再発防止に過剰反応し、結果として事故で子供が死ぬ割合は少なくなるが、子供を育てるためのコストが増加し、次世代を担う子供を育てるための〔投資〕ができなくなり、少子化が加速し、このまま行けば人類は滅びてしまう。
更にこれらの問題を突き詰めていくと「既得利権が人類を滅ぼす」という考え方につながっていく。この世に生を受けた人は、命があること自体が既得利権であり、その生命、安全、快適性、その他の利権を主張すぎると、まだ生を受けていない人の利権を侵害する。
特に命をつなぐ輪の外にいる人が強く既得利権を主張すれば、当然その分、既得利権のない、まだ生を受けていない人の利権を侵害し、少子化につながる。
21世紀初頭にある人物がこんなことを言っている。
「人間は受精した瞬間から既得権益を守る。受精膜により他の精子の進入を阻止する」
動植物の場合、この既得権益はその種を継続的に繁栄させる方向に働くが、成熟しすぎた人間社会の場合、特に民主主義が行過ぎると既得利権が拡大しすぎ、急速に破滅の方向に働きだす。
行過ぎた民主主義がある一線を越えると、成人までの投資額が大きくなりすぎて、出生率が下がってしまう。そうするとますます安全確保の杭を打ち、投資額増大の悪循環に陥る。この社会構造の改革を行わない限り、この問題を解決することはできない。
確かに21世紀中頃からこのような現象の加速は大問題となり、結果はでていないにせよ根本的な解決方法を模索しようとはしている。
だが、誰もが批判されることを恐れ、核心に触れようとしない。これは、まさにこれから生を受ける未来の子どもたちに対しての利権侵害に他ならない
過度の安全確保は社会全体として大きなマイナスになる事を学習すべきであり、真剣な議論が深められることを望む。
口にするは憚れてはいるが、この問題に対する一つの答えが、核心遺伝子操作による医療費削減であることは分かりきっていることである。核心遺伝子操作により、人が病気で死ぬ事はほとんどなくなる世界は現代の技術であれば実現可能だ。
傷口から破傷風などに感染するリスクは大幅に減少し、軽度の怪我なら治療する必要はなくすことができる。足を切断するような重度の怪我については義足や義手の技術が進歩し、健常者とほとんど変わらない生活ができるようになっている。
極めてまれだが、目を損傷する事もあるが、21世紀末には眼球を使わずに、直接脳に映像を投影する技術も確立されているが、この技術は危険技術として禁止され、ローテクな方法が使用されているのは理解できる。
事故死についてはある程度の比率を見込まざるを得ないだろう。残念なことに、死に至らないまでも、重篤な後遺症をのこす怪我も僅かながら発生している。ただ、これらのハンディキャップを持つ人に対しては十分なケアができている。
このような現状を踏まえれば、世界の出生率を2.01程度にコントロールすれば、人口が増え過ぎもせず、減り過ぎもしない、世代間で対立が起こることがない社会、未来の子どもに負担を負わせない社会を実現することは決して不可能ではない。