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思考の土台となるもの

 思考するためには知りたいという好奇心や、分かりたいという信念のような動機が必要不可欠だという話をしましたが、他にも必要なものがあります。とても当たり前のことですが、思考の土台となる「情報」がなければ人間は考えることができません。思考とは、既知の事柄、情報の組み合わせや積み重ねによって自分の知らないことや分からないことを解明していく過程であり、その方法だからです。檻に入れられたチンパンジーがバナナをほしいと思うのも、それが美味しい物だという情報を知っているからですし、棒という道具を使えば物を引っ掛けて引き寄せることができるという情報を知っているからこそ、檻の中からでもバナナを取ろうと試行錯誤できるのです。
 未知なることを既知の何かと関連付けたり、既知の何かとの類似性から推測したりしながら可能性を掴み取ろうとするような行為には、思考を未知の領域にまで飛躍させるための確かな土台が必要になります。だからこそ、この土台となる情報、知識がしっかりしていないと、思考もしっかりとしたものになりません。
ただ、この土台となる「しっかりとした情報」とは何なのか。その基準と判断、その認識は人によってさまざまです。同じなにかについての思考や考察も、土台としている情報が人によって異なれば、おのずと思考も人により違ったものになります。バナナが好きな人もいれば、ちょっと苦手な人もいるでしょう。それによって「食べたい」あるいは「食べたくない」といった具合に、思考も違ってくるというわけです。
 それぞれの個人が土台となる情報をどのように選んでいるか。情報の精査は個人の個性やポリシーによってバイアスがかかり、その結果も大きく左右されます。個人が知っている情報、知識はもちろんのこと、その体験や経験に基づいた嗜好や志向、信仰する宗教や暮らしている地域の法律やルール、社会常識や文化などが主に影響することとして挙げられます。正しい行いが人によって違うように、正しい情報も人によって違います。
 たとえばダーウィンの『進化論』は発表当時、欧州諸国では一部の知識人を除いてまったく相手にされなかったらしいですが、明治期の日本で初めて紹介された際には概ね受け入れられたという話を聞いたことがあります。「人間は、元々はサルだった」というのは当時、かなり衝撃的は論説だったことは想像に難くありません。特に欧米諸国では多くの人にとって受け入れがたい論説だったと思いますが、おそらく日本人には「なんとなく、そういうものだったろうな」と素直に受け入れる土台があったのだと思います。何を正しい情報としているかによって、その人の思考のみならず情報理解も大きく変わることがよくわかります。
 いいかえるならば、人はたとえ間違った情報や曖昧な情報でも自分が受け入れやすいもの、受け入れたいと思う情報を、正しい情報だと思いこんでしまうことがあります。どんな不確かなことでも誘惑に抗うことは難しいですし、どんな真実でも受け入れがたいことはあります。その結果、しっかりとした知識や情報ではなく、あやふやな間違った土台をもとに思考を展開してしまうこともよくあります。そして、そのような思考から生み出される発想やアイデアは穴や隙の多いものになってしまうのです。

『空調服™を生み出した市ヶ谷弘司の思考実験』より

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