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「もしも」を考える意義

 好奇心や欲望というものは面白いもので、動物は一度それが気になってしまうと頭の中がそれでいっぱいになって、執着してしまいます。ただ、その好奇心や欲望のままに行動に移せば、そこには思わぬ危険が待っていたり、取り返しのつかない事態を引き起こしたりすることもあるでしょう。そして、ある程度成熟した動物はそのことを経験として知っています。たとえばある実験では、一度釣られたことのある魚はそのことを覚えているのではないかと考えられるような結果が出たそうです。
このように動物は経験を元にして、どんな動物であっても行動に移す前に少しは逡巡するようになります。これが思考の原点ともいえるのではないでしょうか。
 「動物も考えるのか」と思う方もいるかもしれませんので、ここでは有名なチンパンジーの実験を例にみていきましょう。檻に入れられたチンパンジーが檻の外にあるバナナを取ろうとする実験です。バナナのある側にはバナナにどうしても届かないくらいの長さの棒が置いてあり、チンパンジーは好奇心の赴くままに棒でバナナを引っかけようとしますが届きません。チンパンジーはどうやってもバナナを取れないのでイライラします。
ただ、少し冷静になってみると、檻の反対側にはバナナに届くくらい長い別の棒が置いてあり、その棒は短い棒を使えば引き寄せられることに気づきます。結果、その長い棒を使うことで、最終的には無事にバナナを取ることができたのでした。
この実験の結果は、動物も考えていることの証左の一つとなるでしょう。そして、考えるということは、好奇心とそれに導かれる行動の合間に、「もしも」という可能性を感じるセンサーが一種の緊張感を覚え、発現するように思います。自らの経験や知識、あるいは種が本能的に共有する感性と照らしあわせた上で、行動していいのか、行動しないほうがいいのか。行動するならば、どうすればリスクを減らせるのか、あるいは効果を高められるのかといった思考を巡らせるのです。
このように動物の好奇心は欲望と直結していますが、そこに思考が挟まることで欲望を抑えつけることができるようになります。これが理性といわれるものです。この理性を発達させ、共有することで人類は危険や無駄を回避できるようになり、ここまで発展してきたといっていいと思います。
これは言い換えれば、欲望が作り出す目的や課題といったものをクリアする方法を、共有したり模倣したりすることで解決してきたということでもあります。それは、太古の昔から現在に至るまで変わりません。
書店には数多くのハウツー本やノウハウ本が並べられていますし、インターネットではさまざまな情報交換が行われ、役に立ちそうなノウハウがまとめられたコンテンツは多くのアクセスを集めています。このように人の好奇心を満たす、あるいは欲望を解決する方法はノウハウ化されて共有され、模倣されてきたのです。
ただ、これにも一つ問題があります。このように情報が得やすい環境下にある人間は、好奇心と行動の合間に「考える」ことなく、まず「調べる」ようになってしまうということです。
まず調べて何が悪い。そう思う人もいるかもしれません。たしかに、過去の事例を参考にすれば無駄やリスクを回避できることも多いでしょう。今まで知らなかった知識を得て、色々とわかっていくのもたまらなく快感です。ただ、調べることが模倣に直結し、そこで完結してしまうのはやはり問題です。現在のように情報化が進んだ社会においては、この傾向がかつてなく顕著になっているように思えます。
課題の解き方というのは必ずしも一つではありません。好奇心や欲望、あるいは願いといった目的を達成するための方法には、未だ発見されていないたくさんのやり方があります。もちろん、それらの未知の方法はすでに試されて無視されている方法でもあるでしょうし、すでに淘汰された方法でもあるでしょう。ただ、まだ試されたことのない方法もあるはずですし、忘れられた方法は今だからこそ価値のある場合もあるでしょう。模倣で完結してしまうと、この未知の新たな可能性を閉ざすことになってしまいます。
ノウハウというものは、達成率や成功率が高いからこそノウハウとして共同体の中で共有されていくわけですが、それは偶発的な「もしも」が極限まで消されているということでもあります。それは言い換えるならば思考が固定化されていることであり、新たな可能性が閉ざされていることもあるということになります。もしも、その解決方法ばかりが採用されるようになれば、新たな方法への試行は止まってしまいますし、意思決定も画一化されていきます。そして、そこからは未知の新たな方法への探求は生まれてこなくなるでしょう。
もちろん調べること自体はとても大切なことです。自分の考えを裏付ける証拠を調べるとは重要なことですし、自分が知らないことを理解するために知識を得ることも必要です。ただ、そこで得た知識はあくまで一つの答えにすぎません。そこで考えることをやめてしまうのは、動物ではなくロボットと同じになるということを忘れてはならないでしょう。

『空調服™を生み出した市ヶ谷弘司の思考実験』より

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