この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
人はどこにいるのか
石英星に移住して200年が経過し、第6太陽系の人口は予定通り5億人に達した。
この間、表半球側の隕石防衛システムは完璧に機能し、隕石による実質的な被害は全くなかった。一方、裏半球側では、隕石の直撃による採掘基地や人体への被害が度々発生した。この200年間に200体ほどの人体が隕石の直撃を受け修理不能となった。そのうちの2割程は人体がばらばらに破壊され、中には電子脳が破壊されることもあったが、隕石検出緊急避難システムにより1人の犠牲者も出さなかった。
人口5億人という1つの大きな目標が達成され、今後、人体関連産業の比率が大幅に縮小する事は明らかである。人体関連産業にかわる大きな産業の育成が必要である。
この星の人類に必要なエネルギーは電気だけであり、電気は太陽光からも質量電池からも豊富に得ることができる。従ってほとんど働かなくてもこの星では生きてゆける。しかしながら目標を失うと不満が増加する。政府はこの点で大きな問題を抱えてしまった。
政府の中でも最も危機を感じているのは人体製造省である。この問題点について、人体製造省の幹部と関連技術者をメンバーとする対策会議が開催された。
「人口は5億人に達し、1つの大きな目標は達成できた。今後も一定の人口の増加や人体の増産を行うが、人口5億人の多くを支える産業にはならない。何か対策が必要だ」
「今まで人体は数量のみで質の検討はなかった。人々を満足させるための人体について考えれば、突破口につながるヒントが得られるかもしれない。対策プロジェクトの1つとして、人体について研究するプロジェクトを作ろう」
このような議論を経て、人体製造省の対策プロジェクトの1つとして、関連技術者をメンバーとする〔人体研究プロジェクト〕が発足し、議論を始めた。
「脳データや顔データ、声データを通信により飛ばし、遠くにある別の人体に乗り換えて移動できるようになった現在では、自分が自分である事を認識する事は記憶だけである事は明白になった。我々が現在ここで会議しているので、我々がここにいる事も明確だ。しかし隕石防衛システムの研究時に開発された瞬時通信が運用されると、隕石から電子脳を守るために脳を安全な脳保管庫に入れたまま、瞬時通信でこの会議室の人体と通信し会議することになる。脳と人体を切り離した場合、人はどこにいることになるのだ。心はどこにあるのだろう」
「たとえば脳が他の天体に有っても、瞬時通信でここの人体とつながっている場合、自分のいる場所は目や耳のある人体を使用しているこの場所と認識するだろう。仮にこの会議のメンバーの脳が別の天体にあり、瞬時通信で人体と通信しここで会議を行っていれば、ここにいることになる」
「仮に目や耳をふさいだ時に我々はどこにいると認識するのだろうか」
「目や耳で今いる場所が確認できなければどこにいるかわからないだろう。しかし椅子に座っていることだけは椅子から尻に受ける感覚、すなわち触覚でわかる」
「脳の場所が無関係な事だけは確かだが、自分がどこにいるか認識するのに必要な感覚は何が最も重要だろう。五感、我々には味覚や嗅覚はないので三感だが、その中でも最も重要なのは何だろうか」
「それは触覚が最も重要だろう。触覚がなければ椅子に座っている事は無論のこと、手が机の上にある事や、下着を着ている事も何もわからない。触覚がなければ歩く事もできない。床についている足が右足か左足かもわからない。寝ていても背中が敷布団に接している事もわからない。裸で宙に浮いているような感覚だろう」
「三感が別の場所に分散している場合はどうだ? 触覚のある人体の本体はこの会議室の椅子に座っていて、右目は作業場、左目は左隣の会議室、耳は右の会議室にある場合もだ。 多分、目と耳をふさいでしまうだろう。そうしないと支離滅裂で発狂しかねない。しかし目や耳をふさぎようにも手が別のところにあれば手ではふさげない」
「脳がある場所は全く関係ないことだけは確かだが、三感の位置の問題には答えが出せない。生産的な話に戻そう」
生きるためには娯楽も必要
「この議論は観光産業に生かせないだろうか。観光用の人体が観光地にあれば良い事になる。裏半球側での採掘作業と同様に、各観光地に観光用の人体を備えておけばその体に乗り換えればよい。或いは瞬時通信を使って、脳の代りに瞬時通信装置を頭に内蔵し、脳は自宅に残したままで、脳のない、目や耳や触覚を完全に備えた観光用人体を用いる事もできる」
「もっとも合理的な観光は何だろうか。21世紀の末期には、バーチャル観光がかなりの域に達していたようだ。その後情報技術は危険技術として禁止され、バーチャル観光技術も禁止されたと聞いている」
「具体的にはどの様な内容だ」
「最終的な目標は次のようだと聞いている。観光地に観光客の出入りを禁止して、観光地の各所に大量のカメラを備え付ける。 観光会社に行き、観光先や観光内容に応じた料金を支払い、観光ルームに入り、目と耳と鼻とを覆う観光用ゴーグルをつけスタートスイッチを押すと、観光先に着いた時から観光がスタートする。観光ルームでその観光地内の行きたいところに歩いてゆけば、次々とカメラやマイクがスムーズに切り替わる。近くに行って詳しく見たければ、近くまで歩いていって目を近づければ良い。観光地のバーチャル化も検討されたようだ。この場合は実際の観光では禁止されている事も行うことができる。例えば立ち入り禁止のところにも入れるし、触ってはいけないものを触ることができる。文化財への落書きだってする事ができる。疲れたら座って休む事もできる。岩の上に座ったごつごつとした感覚や冷たい感覚が尻につたわる。リアルでは何日もかかるところを瞬時に行ける。厳しい山道を登ることなく、目的地の近くに到着したところから観光が始まる。立ち入り禁止の危険なところにも行くことができ、万一滑り落ちてもバーチャルなので問題はない」
「有名な観光地では実験的にこの方法を導入し、人気は上々だったようだ。観光地の土産店での店頭販売はできないが、土産店もバーチャル化し、ネットで大いに売れて喜んでいたようだ。その他の観光関連者も観光設備のメンテナンスなどに従事していた。何よりもバーチャル観光業者からの多大な契約金が入り、その観光地の関係者全員が潤っていた。世界遺産などへの観光は、遺産保護の立場から大幅な制限が加えられていたが、バーチャル化により遺産が傷つく事がないので、大量の観光客が訪れたようだ」
「1人で観光する場合には問題ないだろうが、大勢で行く場合でもバーチャル化で対応できたのか」
「ほとんどの場合は対応できたらしい。単独行動しているときは1人で自由に行動でき、団体で行動する時も違和感なく観光できたようだ」
「リアルな観光で出来るもの全てがバーチャルで出来たのか」
「観光の楽しさはほとんどが人間の五感で味わう。目の代わりは大量のカメラであり、専用コンピュータで画像処理した後の映像を網膜に投影する。耳の代りも目と同様で、大量のマイクが音を拾い、専用コンピュータで処理した後、耳に音を伝える。足の裏や尻や手のひらなど体の多くには刺激装置が取り付けられているので、大半の触覚は機能する。ただし旅行中に盛り上がり、ホテルで男女が性行為をするのだけはバーチャルではできなったとある。性行為をバーチャルで行おうとしたら、観光ルームの中にいる観光客の局部に、極めて巧妙で精密な刺激装置を取り付ければならないので、さすがにこれだけは行わなかったようだ」
現状の問題を解決する一石三鳥のプロジェクト
「それで、その後、バーチャル観光技術はどうなったのだ」
「リアルな観光で出来なかったことが、バーチャル観光により次々と実現でき、観光の大半はバーチャルになったが、21世紀の末期に新誕生システムが運用されると同時に、危険につながる技術の研究は禁止され、危険につながる技術を用いた製品やサービスは21世紀初頭に戻された。当然バーチャル観光も禁止された」
「観光産業は、21世紀末のこの方式を参考にしよう。無論この星には面白い観光場所はあまりない。しかし、専用の階層型コンピュータを用いれば観光場所そのものもバーチャル化でき、観光場所はいくらでも作り出すことができる」
「我々は第1世代、第2世代の人類の脳構造をそのまま引き継ぐ正統な子孫だ。地球の名所を舞台にしよう」
「専用の階層型コンピュータを使用すれば、地球の名所の舞台を詳細に作り出すのは簡単にできる。歴史観光や体験旅行にはストーリー作りが大切だ。ストーリーができれば、シナリオはコンピュータの中層でできる。地球に関するできる限りの情報を巨大なコンピュータに集めておけば良い。例えば京都観光の場合だと、巨大なコンピュータに集積してある京都に関するあらゆる情報から寺院や名所をデータとして作り出す。重要な部分ほど詳細に作成する。無論観光とは関係ない、便器の内部構造のデータまで再現する必要はない。重要な部分は詳細に、通路の砂利の敷き方など、あまり重要でないところはアバウトに作り出す。春には桜を満開にし、秋にはもみじを紅葉させる」
「階層型コンピュータの上層への入力方法により、でき栄えが大きく違ってしまうだろう。でき栄え評価用の階層型コンピュータを作り、観光地の作成と出来栄えの評価を、コンピュータ同士で何百回も繰り返せば、自動的に圧倒的な出来栄えの観光地を作ることが可能になる」
「このプロジェクトの元来の目的は急増する人口に対する雇用の問題だ。雇用対策や人々の満足度を上げる対策として観光産業は重要だ。観光資源作りにかかわる人、特にストーリーを作るクリエーターや出来栄え評価に人を大量に投入すべきだ。出来栄えの評価にコンピュータを多用するのは反対だ。とにかく観光や歴史旅行には力を入れ、大量の雇用を創出しなければならない。非常に上質な観光用のシステムを作り、地球への観光旅行を大いに楽しめるようにしよう」
「地球への観光システムが出来上がったら、具体的にはどのように観光を行う? コンピュータで作り上げた観光をどのようにして楽しむ? コンピュータの中の観光を脳が直接楽しむのでは、あまり健全な方法とはいえない」
「21世紀末のバーチャル観光と同様に、自分の人体か或いは観光用の人体で旅行社に行き、視覚と聴覚の2つは直接端末と直結し、体には触覚用のセンサーを沢山取り付け、観光ルームの中で見たいところに歩いて行くようにすれば、それなりに体力を使い、健全な観光になるだろう」
「我々は体を乗り換えて自由に移動ができるようになった。どの様な特殊な人体も使用できるようになった。観光会社には、瞬時通信装置を備えた観光専用の人体を多数用意しておく。 観光会社に観光を申し込み、観光地や観光内容や観光時に使用する人体の仕様を打ち合わせ、自宅からその人体に体を乗り換えれば良い。自宅の移動室には電子脳の入った自分の人体が残り、電子脳と観光ルームの中の観光用人体が瞬時通信とつながっていれば問題はない」
「しかし、まだ電子脳から直接、瞬時通信できるようにはなっていない。仮に電子脳に瞬時通信機能を付加すれば、電子脳を自宅や電子脳保管庫に置いたまま、瞬時通信装置を備えた人体を動かすことが可能になる。電子脳がどこにあっても、瞬時通信している人体の中に電子脳があるのと同じだ。電子脳のある人体に記憶や顔データを飛ばし、体を乗り換えて移動する考え方とは根本的に異なる。観光旅行の件とは別に、瞬時通信を用いた時の電子脳と人体との関係を見なおしてはどうだろうか」
「電子脳と人体を切り離す事は、現在でも普及している一般通信を使う場合なら技術的には何の問題も生じない。少なくとも観光旅行社が近くなら、一般通信でも行うことができる」
「一般通信だと、少し距離が離れる場合、激しいからだの動きには遅延の問題が生じる。瞬時通信なら遅延は全く生じない。瞬時通信装置を小型化できれば、電子脳と人体とは完全に分離できる。これができれば人類史上最大の大革命だ」
この検討結果はまとめられ、人体研究プロジェクトのリーダーから中野政権に報告された。
この衝撃的な報告に対し政権内は動揺したが同時に大いに期待もした。もしこれが本当なら問題は一挙に解決できる。雇用の問題も、社会の活性化の問題も、人々の満足度の問題も一挙に解決する事ができる。何よりも人体を大改造する、大プロジェクトを行う事ができることに、政府の期待感は高まっていた。