この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
世界初“新規人”の誕生
受精卵着床手術から3ヶ月が経った。加藤夫人のお腹は少しだけぽっこりと膨らんできたが、他人からみれば妊婦かどうかの判断はまだ難しいくらいである。夫人につわりの症状はあったがようやく落ち着き、胎児の経過も良好ということで、いよいよ出産への運びとなった。
出産はロボットでなく人間の医師や看護師の下で行われた。ロボット医師ではなく、人間の医師や看護師がその任に当たるようになっているのは理由がある。母親が出産した小さな乳児が、受精卵の作製から着床までを人の手を介さずにAI技術を用いて行われた事に対する、今後の違和感を緩和するための配慮だった。
加藤夫人は従来の人間(従来人)であり、当然妊娠3ヶ月で体に出産の準備が整うはずはない。そのため早期に自然分娩が可能となる施術を行った上で出産を行った。従来ならば出産した新生児は本来3ヶ月の胎児のはずだが、核心遺伝子の操作により体は小さいものの形は乳児に近く、いうならば胎児というより未熟児というのがより正確なところだ。大人の手のひらにちょうど乗るくらいの大きさだが、自ら呼吸もできている。「出産には何ら危険が伴わない」との事だったが、施術室の外で待っていた加藤氏は、少し甲高くとても弱々しい産声をそこで聞いた。そしてそれは同時に、ホモサピエンスが新たな段階へ進化した産声でもあった。
出産後、新生児のゲノム検査がすぐさま行われることとなる。ゲノム検査といっても、検査器に体の一部を当てるだけであり、体から染み出たゲノムを含む体液から、ゲノムに組み込まれた90桁の情報の内、機密部を除く60桁の情報を読み取るだけである。その情報の中にはロット番号も記録されていた。何か問題が生じた場合に、そのロット番号を読み出し、核心遺伝子の記録情報と照らし合わせて、新誕生システムの更新時にその問題を解決するようになっている。
ゲノム検査が終了すると、新生児は保育器に移された。従来では考えられないほど小さな新生児であるが、核心遺伝子の操作により、ほとんど病気にかかる事がないため保育はこれまでよりも簡単である。また、それから数日後には新生児室には同じくらいの大きさの新生児が沢山いたが、看護師はその取り違いに注意を払う必要がなかった。新生児の保育器にはゲノム検査器が配備され、保育器に新生児を入れると新生児の体液から60桁の情報を読み取り、命名されるまでは両親の名前が、命名後は本人の名前が表示されるからである。
命名「加藤ベニ」
面会用の部屋で待つ加藤夫妻のもとに保育器に入った夫妻の赤ちゃんが届けられた。夫人にとってもはじめての面会である。小さいが精一杯声を上げる幼い我が子の姿に、夫妻は強く心を震わせた。
保育器には夫妻の名前が表示されていたが、それにも係らず加藤氏は「本当に自分たちの子供なのでしょうか。取り違える事はないでしょうか」と少し神経質すぎる様子で看護師に質問した。看護師は、赤ちゃんを夫人に手渡したあと、微笑みながら「その心配は全くありません。このように保育器の底にはゲノム検査器が配備されています」と小さな板を指差した。
「これがゲノム検査器なのか、ただの小さな板にしか見えないが」
「これに赤ちゃんの体が接触すると、その体液からゲノムを取り出し、ゲノムに含まれている60桁の番号を読み取るので取り違えることはありません」
そんなやり取りがされる中で、夫人は愛おしそうに生まれたばかりの小さなわが子を抱きかかえていた。
「でも、母乳を直接あげられないのは残念ね」
「仕方ないよ、こんなに小さいんだから」
少しだけ気落ちした様子を見せる夫人に、加藤氏は気遣うように声をかける。
夫人は妊娠3ヶ月で出産したので、従来ならば母乳がでることはなかったが、新誕生システムによる出産の場合、母体のホルモンバランスを調整する関係上、出産時期にあわえて母乳が出るようになる。母親として授乳させてあげたいのは当然の本能であるし、新生児にとっても自ら栄養を欲しがる「母乳を飲む」という本能は今後生きていく上では欠かせないものである。ただ新生児はあまりに小さく、自ら母乳を吸い出すことができない。そのため今後は、病院で母乳を採集保存して、それが新生児に与えられることになる。
看護師が「ご主人も抱いてみたらいかがですか」と促すと、「こんな小さな新生児を、手を消毒しないで触って良いものか」と、加藤氏はまた心配をはじめる。
躊躇していた加藤氏だったが、看護師に「そのまま触って大丈夫ですよ。新誕生システムにより生まれた赤ちゃんは病気に感染する恐れはありません」と説明されると、恐る恐る両手で掬うように小さなわが子を抱きかかえた。
その後、夫人は診断を受け、特に問題もないため出産したその日の内に退院した。ただ、新生児はもうしばらくは産院にて経過をみることになる。夫妻は毎日のように産院を訪れ、会うごとに大きくなっている事に満足した。
二人の赤ちゃんは、戦争もパンデミックもない世界になるように、健やかに誰からも好かれ生きられるよう願いを込め、夫妻が大好きな赤い薔薇から「ベニ」と名づけられた。
新たな産院の日常
新生児室には様々なカップルが訪れ、自分たちの赤ちゃんに面会していた。その中には男性同士のカップルや女性同士のカップルもいた。女性同士のカップルの場合には、そのどちらかが生めば良いので特に違和感はなかったが、男性同士のカップルの場合どのようにするのかと加藤氏は疑問を持ち、思い切って担当の看護師に聞いてみた。「それは昔と同じ代理母ですよ」との一言に加藤氏は納得した。
いつもひとりだけで面会に来る女性に対し、加藤氏はうかつにも、「ご主人は忙しいようで大変ですね」と声をかけてしまった。その女性は少しいらだった形相で「この子は私だけの赤ちゃんです」と言った。加藤氏は小声で「すみません」と言って、自分の軽率さを反省しながら面会室から立ち去った。
帰宅後、加藤氏は先程の女性の事が気にかかり「昔なら一夜の火遊びなどで妊娠した女性がひとりで出産する場合もあるが、新誕生システムでは計画的にしないと子供は授からないのに、どうして女性ひとりで子供を持つ事ができるのか」との疑問がわき、次の面会日にその疑問を看護師に質問した。看護師は、「それは仮想カップル制度を利用したのですよ」と説明した。
仮想カップル制度とは、「結婚は好まないが子供は欲しい」という単身者のために作られた制度で、コンピュータ上にその単身者に応じた仮想の相手が複数用意され、そのうちのひとつを選び、その仮想の相手のゲノムを使用する制度である。
新誕生システムが運用され、自然妊娠による出産は禁止されることになった。誤って妊娠した場合、闇病院でもない限り自然妊娠による出産はできなくなり、闇病院も次々に摘発され閉鎖された。
新誕生システム運用以前に生まれた男女カップルでは、誤って妊娠しないように、カップルの両方、少なくとも男性側は不妊手術を施し、性行為は単に愛を育むための行為、或いは快楽を楽しむための行為になり、子供を設けるための行為ではなくなった。
男女カップルであれ同性カップルであれ、子供を設けるためには、カップルのゲノムを基にコンピュータ上でゲノムが合成され、遺伝子に有用な操作が行われた後に、改良された遺伝子を持つ受精卵が作製され、女性の胎内に着床され、女性が出産する事になっていた。
男性カップルの場合、21世紀初頭と同様に代理母による方法が取られていた。すなわち男女カップルであれ、同性カップルであれ、代理出産の経費は別として、カップル間の子供を設ける事が可能となった。
この新誕生システムでは、男女カップルは1~4人、同性カップルは1~2人、単身者は0~1人の子供を持つように義務付けられていた。しかしながらカップルによっては子供を持つ事を嫌う者もあり、強く義務付けると子供の虐待につながる恐れがあるため、違反金を払う事によりこの義務は免除されることになった。この違反金を主な原資として、出生率が2を割りそうになった場合、いわゆる子供手当てが増額され、出生率の微調整が行われた。
加藤夫妻の長女として誕生したベニちゃんは2ヶ月後に退院した。妊娠期間が3ヶ月の未熟児であったにもかかわらず、核心遺伝子の操作により、2ヶ月後には従来の生後2週間の乳児と同様の大きさとなる。
退院後も病気にかかる事なく順調に成長した。核心遺伝子の操作により病気を患う事はほとんどなくなり、この点で子育ての負担は大幅に減った。しかし遺伝子操作により乳幼児の好奇心や、それに伴う危険な行動を阻止する事はできず、やはり親は子供が怪我を負わないように気をつけて育てる必要があったし、両親の愛情が健やかな育成に何よりも大切であることはいうまでもないことだった。